カワヅが考えていること

カワヅが考えていることです

母のこと

医療に関することが書いてありますが、素人的な記録なので間違いがある可能性があります。その点ご了承ください。

 

2023年の11月6日から日付変わったばかりの11月7日0時32分、母が他界した。
肺に小さな影が見つかってから1年も経たないあっという間の事だった。

 

こんな個人的な事、インターネットの海に書き残さずに心の中にしまっておこうかとも思ったが、記憶も、今の気持ちも、だんだん薄れていってしまうので今のうちに書くことにする。

 

事の発端は去年(2022)の年末のこと。
カワヅはCOVID-19こえーなーと滅多に実家にも顔を出さなかったのだが、母も感染し、その後の検査の結果、肺に小さな影が見つかった。
高齢な事、まだ影が小さいのでどんなものかわからない事、そして何より持病により肺の外科手術をすると他に悪影響が出る可能性が高い事、それらの材料を並べて「まめに検査をしながら様子見」という判断になったそうな。

 

母の持病については、かれこれ40年近く前に発症した膠原病というのがそれだ。
膠原病自体は広い意味で使われる病名なのだが、母の場合顕著だったのはSLE(全身性エリテマトーデス)だった。
常に微熱があり、外からの病気への抵抗力が弱く、日光に当たると顔に発疹が現れる。
医者からの説明で聞いたのだが、この病気を持つ人が肺がんの外科手術を受けると間質性肺炎が増悪する事がとても多いらしい。間質性肺炎は簡単に書くと肺が硬くなり酸素を取り込む能力が落ちる。

 

経過を見ていくと、検査ごとに大きくなる影にこれは良くないと摘出を決めたのが4月だったか。なんやかんやと色々あって手術をしたのが5月のこと。

 

手術前は腫瘍マーカーの値は上がってきているが、肺の影から周りには転移を認められず、
ステージ2というまだ治療の余地がある判断。
年始の時点では1だったはずなのでそれでも早い進行だ。

 

手術が終わり、医者からの報告を受ける父、兄、自分。
腫瘍自体は無事摘出し、肺の外への侵出もなかった。それを聞いて盛り上がる我々を止めるように

 

「実は」という医者の声。

 

肺の外側には胸膜という膜があり、その隙間に胸腔というスペースがある。そこに潤滑油的に存在する胸水という液体にがん細胞が出てきていた。胸水というのはそこから浸透し、身体中を巡る、らしい。

 

その結果告知されたのは、本来ならば手術適用外のステージ4。

(外科手術による治療効果よりもそれによる消耗の方が大きい)

ガンのステージについてはここでは詳しくは解説しないので興味がある人は検索してみよう。
要は後がないってのが4。

 

ここではほとんど皆が頭が真っ白になり、父は目が虚ろで兄はブルブル震えている。
事実をしっかりおさえておこうとなんとか言葉を搾り出し、出来うる限りの情報を聞き出す。
胸水への浸潤がある場合非常に予後が悪いこと。
母に宣告するかしないかは自分たちで決める必要がある事。
体力が戻り次第抗がん剤治療に入る事。
抗がん剤治療をしなかった場合余命は1年以内。

 

なんとか事実を整頓して各自家に戻る。
が、心を落ち着かせる間もなく事態が急転する。

 

手術翌日、「目が見えない」「手が痺れる」という一報が入る。

 


肺がんの手術で目に影響が出るって何事!?
その時点ではCTを撮っても何も異常はなく、術後せん妄では?
であれば急いで一度家に戻って安心するのが大事、とかそういう話だった気がするが、バタバタとしていたらその後に再度やったCTで脳梗塞が見つかったらしい。右半身が不完全麻痺。動かすのは可能だが制御が難しい状態。
さらに発話障害。後で本人に聞いたところ、頭の中では考えられているのだが上手く言葉にできなくなったとのこと。

 

せん妄の線がなくなったので退院するのは無くなり経過観察。
幸い程なく左目は言うことを聞くようになり全盲は免れた。右目も見えてはいるが目線の移動と焦点調節がうまくできないらしく右目は眼帯をして隠した方が楽だった模様。

手術後に書いた母の手帳。

右半身が利かないのでまともに書けなかったらしい。

カワヅの誕生日である6/4に何か大量に書こうとした形跡がある。

見た時ちょっと泣きそうになっちゃった。

この辺りのタイミングで母には告知をした記憶がある。

 

この脳梗塞により抗がん剤治療に進むための体力を取り戻すリハビリも予定通りにできず、抗がん剤治療は断念することになる。

抗がん剤治療ができないのであれば病院にいても仕方がないのでここでようやく退院となる。

 

この時点では目も一応見えるようになり、行動もできるのでしばらくは不自由ながらも自宅で過ごすことができていた。

父はこの時点で仕事を完全リモートワークとして、基本ずっと一緒に過ごしていた。

 

上がり続ける腫瘍マーカーの値を横目に夏をやり過ごす。

夏が終わり秋になる頃、この話とは関係ないが、これを書いているカワヅはしばらく自分のものづくりに専念するために定職の仕事を辞めフリーランスに戻る。

一応両親にも「仕事辞めたで〜」とメッセージを送った翌日、

 

「母が再入院した」

 

との連絡が入る。あれ?もしかして俺のせいか?それはともかく病院に駆けつける。

手術をした病院とは違うところで、いわゆる終末医療をする病院だ。

苦しくなって病院に搬送したところ、胸水が溜まって肺を圧迫しているとの事で、ひとまず水を抜く事で事なきを得るが、
この段階から医療用麻薬の使用が始まる。
ともかく胸水の状態が安定しないとどうにもできないのでしばらくは入院し、検査をしながら過ごす。

胸水を抜くと肺への圧迫が減るので一時的に呼吸は楽になるが、体液の一種なのでそれを抜くと言うことは身体に必要なものも一緒に抜くことになる。ただ抜けば良いと言うものではないらしい。

 

この時点で、「もう家には帰れないかもしれない」という思いが全員の頭にあった。

 

そんな中で母にも、周りの自分たち家族にも大きなストレスになったのが面会制限だった。
COVID-19による制限が軽くなったと言うのは一般人の事で、病院内は変わらず厳戒態勢だ。院内感染を起こすわけにはいかないのだから当たり前だ。
なので基本は面会謝絶。自分たちは今母がいつどうなるのかわからないので無理言って1日1回15分だけ面会時間を取ってもらっていたが、それでも15分である。何人いても15分。最後に会わせたい人を連れて行っても15分。父と母の時間が無くなっていく。

 

そんな絶望感の中、なんとか容態が安定して今しかない!と一時退院許可が降りる。病院の方も家族といられる時間が多い方が良い事はわかっているのだ。
そして3日間家に戻り、何事もなく過ごし、再度入院。
検査をしてもらい、家族全員と母の要望で退院して家で看取る決断をする。
家に介護ベッド、酸素供給機などなどを揃える。

 

なお、退院したら酒は飲んでいたし好きなもの食べて過ごしていたようで何よりである。

 

自分の住まいは結構離れたところにあるのと、このタイミングからイベントラッシュが始まっていたので常に顔を見せるとはいかなかったが、一緒に暮らす父と、隣町に住む兄は日々厳しさを増していく病状にかなりの心労を溜めていた。

 

そしてイベントラッシュも中盤、イベント翌々日に一度実家に顔を出そうと思っていた所、予定の前日に父から

 

「今日来れないか」

 

との連絡。どした?と聞くと
今度は兄から

 

「来て」

 

との連絡。

 

これはいかんと色々やりかけのものを後回しにしてすぐに家を出る。実家は遠い。
電車に揺られ、家まであと30分くらい、というタイミングで

 

「急げ」

 

とのメッセージ。急ぐのは電車であってな、などと言う突っ込みを心の中でしつつ、現在地を伝えてはやる心を抑える。
最寄り駅につき、タクシーを探すがあいにくの雨でタクシープールには車がいない。
もとより歩いて10分ちょいの距離なので久々に全力ダッシュをして実家に向かう。

 

到着すると、肩で息をする母がいた。
間に合ったと思いつつ改めて見ると、目は開いているがどこも見ていない。
声をかけるとわずかにうなづくので、意識はある。

 

ほっとするとともに、明るい話をしようと昨日までのイベントのこと、新しい楽器(KANTAN Play Core)を作っていること、とても評判が良いことなどを伝える。
昔実家にあったピアノが今もあれば何か曲を弾いて場を和ませられるのに…などと思っていたら。

 

ありましたよ。楽器。

 

丁度出かける前に人に発送する予定だったこの時点では世界に一台しかないKANTAN Play Core、略してかんぷれをこっちで発送しようと持ってきていたのだ。しかも前日まで何百回もデモンストレーションしたのできらきら星なら任せろーバリバリー!という状態。
      ∧_∧
     ( ゚ω゚ ) かんぷれの演奏は任せろー
  バリバリ C□      l丶 l丶
     /  (   )
     (ノ ̄と、 i
        しーJ


もう自力で握ることもできないので母と一緒にかんぷれを握り、指を導いてきらきら星を演奏する。何度も何度も歌って演奏してもらう。

 

その時、母はもう苦しくて喋れもしないのに
ちょっとだけ笑ってくれました。
ピアノにもインスタコードにもできない、かんぷれだけができる音楽の姿をまざまざと見た瞬間。
この体験は一生忘れない…と思う。

https://kibidango.com/2473

 

その後、夜にもかかわらず看護師さんが来てくれて、努力呼吸(自発呼吸ではなく、頑張って呼吸しないといけない状態)なのでもうあまり時間はないこと、でもみんな疲れ切っているから、ずっと見守ったりせずに一緒に寝てあげてたほうがよい、その間に息を引き取ってもそれはそういうものだという話を受けて寝床に入った後の夜中、母は息を引き取った。

 

夜中にもかかわらず看護師さんはまた駆けつけてくださり、遺体を整えてドライアイスを抱かせてくれたし、お医者さんは死亡診断書を作ってくれた。
その後、少しだけ眠ってから葬儀屋へ連絡。慌ただしく準備を始める。

 

実はこの時Maker Faire Shenzhenに行く数日前で、「こりゃ流石に深圳行くのは無理だ。気力も無い」と思ったのだが、
葬儀場や火葬場の空きがなかなか無い都合で翌日葬儀の翌々日火葬+初七日、というスピードで最低限の法事が終わり(初七日とは)、飛行機を1日ズラせばMaker Faire1日目の途中には辿り着けるのでは?となる。
父、兄との協議の結果、行くことを決める。

 

そこまでして何故仕事でもないイベントに出るのかと言われたら、大きな流れの良いリズムを崩すと立て直すのがものすごく難しくなることがあるからである。
結果、何か賞をもらったりもしたし、

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深圳、行ってよかったわー。

 


一連の中で、なるべく落ち着いた行動を心がけていたが、それができたのは春先、まだ手術前の母との会話のおかげだ。
父も兄もいない時、母から

 

「多分だけど、私あんまり長くない気がするの。予感みたいな。お父さんに言ったら怒られると思うから言わないけど。」

 

という話を聞いていた。「母がそう言うのならそうなんだろうな」と解釈したので、手術をする前からそんなつもりではいた気がする。思っていたよりも早いタイミングではあったけど。

 

脳梗塞のせいで自由に動けなくなってしまったのもあって、茶道具(母は茶道の人なのだ)とか着物とか、祖父の書とか(祖父は書道の人なのだ)、母と父で処遇を決めたかったものとかもまだそのままなんだけど、もう少し時間をおいて考えたいと思う。

 

以上が今年の大きな大きな出来事の記録。
本当はかんぷれのところだけ上手く書いてプロモーションとかに使えるかな、と思ったんだけど全然無理そうなので、乱れた文章で書き留めておくだけにしておく。

 

病院の先生、看護師さん、病院のスタッフの方、在宅医療をしてくれた方々。
後から見ればより良い選択はあったかもしれないけど、それは結果論で、その時その時のベターな選択をした結果だと思ってます。ありがとうございました。

 

そして葬儀関係の方々、半ばパニック状態の自分達に対して色々ありがとうございました。

 

死ぬ直前の夕飯で母がピザを食べたことを何度も繰り返し話し続ける兄、この人が泣きマンだったおかげで父とカワヅは帰って冷静でいられたので助かった。

 

父はまだまだ辛そうで、49日が経った今も実家はまだ静かな哀しみに包まれている。

父には息子が何をしている人間か説明に困らなくなるようになるまで気合を入れてまだまだ生きてほしいと思う。(今は元気)

 

有料部分は小ネタなので、読んでも読まなくても特に影響はないよ。

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回路図

昔自分が書いた回路図読みづれえええええと思うんだけど、これなんで何年経っても昔の自分の回路図が読みづらいのか。3年前の自分の書いたものが読みづらいならわかる。しかし1年前のものも同様に書方が気に食わない。そして1年前も確か似たような感想を持っていた気がする。これいつになったら満足がいく回路図を書けるようになるんだろうな。綺麗で読みやすいなーと思ったのは一度もない。自分で読みやすく感じられるようになるのは、来年?再来年?もっと先?

計算

30000/13000000=0.002307692307692≒0.23%

うーんらなかなかインパクトがある数字。この数字をどう捉えてどうするか、なかなかに悩ましい所である。これが何の数字かは特に説明しないし謎解きゲームではないので、閲覧者置いてきぼりの書き散らかしと思ってもらえたら。気づいた人もコメント不要です。じゃあ書くなよと言われたらそれは本当にそう。

1日

検証をした結果、これは今自分が使うものではないとわかった1日であった。丸一日使ってこの結果。大変贅沢な時間だが、こういうのがのちのちの瞬間的な対応ができる自分を作るのだ。で、いま最後まで書き上げたこの文章を前にうつらうつらしてしまい、うっかりデリートボタンのところに指があったらしく全部消えていた。そしてそれを書き直していて今またうつらうつらして文章が全部消えていたな。もうなんか今日はそういう日でいいんじゃないか。おやすみ。

繰り返し

習慣化してないことは忘れる。長らく真面目な作曲をやっていないので曲がパッと浮かんでくるモードに入らなくなっている。自分の場合は、だがこういう時にポンと浮かんでくるまで唸り続けて出ることもあるが、経験が薄れてしまったことによる物ならここは駄作をいくつか作ってみる必要があるかもなーなどと思うなど。雑に作り上げるうちにサビが落ちてくるのではないかと思う。はてさてそこまでやれるかどうか。なんせ音以外にも作りたいものはあるのだ。やっていきまっしょい。

昼寝

夜の睡眠が足りない時は昼に少し寝ることがある。おおむね15分くらい寝るとスッキリするのだが、たまに海より深く眠ってしまって覚醒に時間がかかることがある。よく考えたらそれでも何時間も寝過ごす、みたいなことは最近はあまりない。覚醒できない時は、起きてるけど起き上がれないみたいな状態になることもあり、そうなると寝転がっているのにあまり回復しない感じなので、寝るならもっとガツンと寝ろ、自分と思うが、その時は起きようとする意志があるのでどっちつかずにヘロヘロと時間が過ぎていく。まあそういうこともある。

これ

外にいる時は移動中、1日家にいる時は風呂で書くことが多いのだが、最近電車でも風呂でも眠くなってしまうので分量がラリった感じになることが少なくない。まるで夢日記のようだ。そんな状態でも毎日更新が続いているのは自分的にはなかなか。一応ライフログ的な部分もあるからというのもあるが、それでもなかなかだ。それもこれも書く内容へのハードルをマリアナ海溝よりも低くしたからに尽きる。こんな文章普通ならボツだからね。にしても最近はスマホで書くことが多くてTwitter連携がなぜかPC用の編集ページじゃないと設定できないのでTwitterへ通知されずにアクセス数が4とかになることも沢山あるけどまあいあか。